窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

意味も分からず、なぜ人は生きるのだろう?

        f:id:seto-konatsu:20170721191618j:plain

 

 私たちはなぜ生きているのか。生きる意味とは何なのか。この世界は何なのか。人間が昔から考え続けてきたことであり、未だ答えの出ない問いである。

 

 誰もが疑問に思っているが、その肝心なことはわからないまま、私たちは毎日仕事をしたり、学校で勉強したり、ご飯を食べたり、遊んだり、買い物をしたりする。この世界が何か、その意味さえわからないにも関わらず、普段の生活を送る自分たちが不思議だったし、少し滑稽に思えたこともある。

 

 でもわからないことがあるからこそ、人は生きていけるのかもしれない、と思った。

 

 「希望のつくり方」(玄田有史著)という本に、こんな話が載っている。優秀な社員が辞めてしまうことに危機感を覚えたある会社は、辞めた社員に辞職理由を改めて尋ねてみた。理由は様々だったが、それは大きく2つに分けられたという。

 

 一つは「このまま働いていても、先が全く見えないから」という理由で、もう一つは「先が見えてしまったから辞めた」というものだったそうだ。

 

 2つは対照的な回答であるが、どちらも働くことに希望を失ったことが退職理由となっている。この話が象徴しているように、将来が全く見えなくても、反対に完全に見えてしまっても、人は絶望するのだと思う。

 

 この世界はわかってきたこともあるが、同時に謎も多く、まだ分からないこともたくさんある。私たちが希望を持って生きるためには、そのバランスが大切なのではないか。

 

 「パンセ」(パスカル著)には、次のような記述がある。神の存在を完全に認識することはできない。だからと言って神を否定するには、あまりにも不思議なことが多すぎる。

 

 神もまた、見えるような見えないような存在なのだ。

 

        f:id:seto-konatsu:20170721191723j:plain

 

 かなり前であるが、100年カレンダーというものが発売されたことがあった。この先100年分の日付がポスター大の紙に印刷されたおり、一覧できるようになっている。しかし、わずか1年で発売を中止してしまったという。(参照元:100年カレンダー

 

 その理由は、カレンダーの購入者が自ら命を絶ってしまうケースが少なくなかったからだそうだ。真意の程は定かではないが、今後100年を一つの紙に収めたことで、自分の先が完全に可視化され愕然とし絶望してしまうというのはあり得る話だと思う。

 

 先の「希望のつくり方」という本には、古典が時代を超えて共有され続ける理由について、次のように書かれている。

 

古典作品の多くがそうであるように、語り継がれてきた物語は、どこか常に相反する両義的要素などが含まれ、そこに多様な解釈の余地が残されています。文学にせよ、音楽にせよ、芸能にせよ、古典となる物語はすべて、多様な解釈を示し続けるエネルギーを含んでいます。

 

 この世に存在するもの、そしてこの世界や人間が生きるということ自体も、常に何らかの両面性があり、多様な解釈の余地がある。だからこそ生命は続き、私たちは生きているのかもしれない。

 

 生きる意味や私たちの存在とは何か。この世界が一体何なのか、生命とは、宇宙とは。私たちはやはり非常に関心があるし、探求心もある。知りたいと願う。

 

 でもきっと、全てがわかってしまったら、私たち人間は生きてはいけないのだと思う。わからないものをあえてわからないままにしておく知性も、人間には必要なのかもしれないな、とそんなことを考える。