窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

「会社の歯車」という言葉には二つの意味がある。

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 「会社の歯車になりたくない」という言葉は、今でもよく使われる。それに対して「歯車だって良いではないか、歯車になるのは立派なことだ」という意見も聞かれる。

 

 以前からこのような会話がなされる度、私は引っかかるものを感じていた。その理由が、何となくわかったような気がする。この会話は成立していないのではないか。そもそも、前提となる「歯車」の定義がお互いに異なっているような気がするのだ。

 

 「歯車」には二つの意味があるように思える。

 

 一つは、簡単に言えば「全体の中の一部である」という意味だ。辞書通りの意味では、歯車は機械に動力を伝えるための大事な要素の一つである。同様に考えると、「会社の歯車」とは、会社という大きな組織を動かす上で、構成員の一人として無くてはならない役割の一つを担うこと、となる。

 

 「歯車だって良いじゃないか」「歯車になることはむしろ立派なことだ」と言う場合には、たいていこちらの意味だと思う。「会社の歯車になりたくない」と主張する人の中には、もしかしたら一部分を担うなんて嫌だ、という人もいるかもしれない。しかし、少なくとも私はこの意味における「歯車」に異論はない。

 

 歯車という言い方はあまり好きになれないが、これは会社に限った話ではない。私たちは一人で生きているわけではないし、自分だけで世界が完結しているわけではない。人間が生きるということ、私たちの存在自体が、間違いなくパズルで言えば一つのピースである常に全体の中の一部なのだ。

 

 私たちは生態系という枠組みの中での一部であるし、人と人とが相互に関わり合う人間社会でも、ネットワークの網目の一つを構成している。そのような中で欠かせない役割を担い、わずかながらでも全体に貢献することは素晴らしいことだと思う。その意味では「歯車になる」ということに何ら異議はない。

 

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 でも、私を含めて多くの人が「会社の歯車になりたくない」と言うときの意味は異なっていると思う。それは、本当の歯車だ。

 

 意思を持たず、考えることを止め、盲目的に会社の言いなりになるような存在。つまり、物言わぬサラリーマンになることを意味しているのではないか。あらゆる側面で人間らしさを奪われ、生気のない目でただただ機械的に働くような、そんな歯車にはなりたくない、ということである。

 

 典型的な日本型企業で働いていて私は、考えることを徐々に放棄させられるような感覚があった。日々の忙しさに、考える余裕は失われる。たとえ「何のために」、「なぜ」、「私は…」とわずかに思いが立ち上っても、それらは有無を言わせぬ壁の前に無残に散ってしまう

 

 生きるためには働かなければ、という圧倒的な事実と、なるべく何も考えずに働くことに徹する同僚たち、そして「余計なことは考えないで、つべこべ言わずに働け」という空気や雰囲気も大きく影響している気がする。

 

 入社当時、私は多様な考えを持つ同期たちと議論を交わすこともあった。でも時が経ち、そんな関係は持てなくなっていった。個人的な価値観を捨て、徐々に組織の価値観に染め上げられていく同期の友人を私は何人も見てきた。

 

 入社当時のあなたはどこに行ってしまったのかという程に。少なくとも仕事上は、彼女らしさは消えてしまった(ように私には見える)。それは組織の中でうまく立ち回り、生き延びるための術でもあるが、後者の意味での歯車としての素養を身につけていく姿を間近で見て、恐ろしささえ覚えたのだ。(本人が幸せならばもちろんそれで良い。実際のところは私にはわからないことである。)

 

 私は、この世界あるいは会社の中の一部であるという事実や、一つのピースを担うことには全く異論は唱えていない。それは当然のことであるし、その中で網目の一つを担い何らかの役に立つことは素晴らしいと思っている。

 

 ただ、動力とはとても言い難い、自分を持たずに盲目的に働く「歯車」のような存在を会社の中で見かける人は多いのではないだろうか。そんな後者の意味で、私は「会社の歯車になりたくない」と思うのだ。