窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

「いのち」は本当に自分のものか?

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 恥ずかしながら、私は今まで「自分の命(や身体)は自分のもの」だと当然のように思っていた。そう信じて疑わなかったのだ。しかし、「いま、働くということ」(大庭健著)という本の中に、命の所有化について書かれた項目があり、はっとした。

 

 著者は、市場社会の発達とともに命の所有化(私有化)に更なる拍車がかかっていると指摘している。

 

 確かに、私たちは自分の意志で身体を動かすことができる。手を挙げたいと思えば挙げられるし、目を開けたり閉じたり、歩いたり走ったりすることも可能だ。また、究極的には自ら命を絶つこともできてしまう。そのため、身体も命も、自分の所有物であるかのように思ってしまいがちだ。

 

 しかし、身体を自由に動かせると言っても、それはほんの一部に過ぎない。心臓の動きや内臓の働き、血液の循環など、ほとんどが自分の意思とは無関係に動いている。自分ではコントロールできないものが、生命の維持の根幹を担っているのだ。

 

 また命を絶つことも可能だが、だからといって自分が命の所有者であるということにはならない。思えば、この命をどこから手に入れたのかも、いつまで続くものなのかも、私には何もわからない。そう考えると、だんだん心許なくなってくる。とても自分のものだとは言えないかもしれない。

 

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 著者は、「自己がいのち(や身体)を所有しているのではなく、いのち(や身体)が自己を支える根拠なのだ。」「いのちの上に自我が誕生するのであって、その逆ではない。」と述べている。(参照元よみた屋のブログ

 

 確かに、「私」というものが先にあって、後から「いのち」を手に入れたわけではない。「いのち」が先にあり、その上に「私」という自我が誕生している。そうか、最初に「いのち」が与えられ、その上に徐々に「私」という自我が形成されていっただけなのだ。決して、私が「いのち」やこの身体を所有しているわけではない。

 

 今まで、「自分の命」などと無邪気に考えていた私はなんと傲慢だっただろう。上述のように考えると、自分が生かされていることが強く実感できる。これは与えられた命なのだ、ということもよく理解できる。

 

 この本の中で、印象に残っている言葉がある。

 

 「私が人生(いのち)に何を期待するかではなく、人生(いのち)が私に何を期待しているのか」

 

 これは筆者が「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル著)から引用した言葉だ。アウシュビッツ強制収容所で、他の多くの人々と同様に、絶望の淵にいた二人の男。もはや生きる意味など失い、自殺を決意していた彼らに、フランクルがかけた言葉だった。

 

 私は、こんな風に考えたのは初めてだったかもしれない。いのちの側から自分を見つめるというのは新鮮だ。こうして視点を180度転換してみると、人生も生き方も見える世界も変わってくる。新たな観点を学び、考えられたことは非常に有意義だった。

 

 いのちの側から自分を見つめると、生き方にも変化が生じてくると思う。ヒントがいっぱいある。フランクルは次のようにも言っている。「あなたが人生(いのち)に絶望しても、人生(いのち)があなたに絶望することはない。」これは生きていく上での大きな希望になると思う。