窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

自分が自分らしく生きていくために。

       f:id:seto-konatsu:20171004202904j:plain

 

 私は以前、心のバランスを崩したことがある。それを克服したと思って過ごしていたのだが、再び身体にサインが現れた。

 

 最初の経験を通して、私は自分の価値観は大きく変化したと思っていた。それまでは何事も努力し、苦しくても耐え、苦労も厭わず、我慢し、常に成長を目指していたように思う。それが最も素晴らしいことで、一番価値のあることだと思っていた。けれどこれからは自分を大切にしよう、人生を楽しもう、頑張り過ぎたりせずにバランスを大事にしようと思ったのだ。

 

 確かにこれらの考えは、以前の私では絶対に考えられなかった、受け入れられなかった、そして到達し得なかった考えではある。もし心による強制終了がかかることなく、当時の考えのまま、あの延長線上を自分が進んでしまっていたら、と考えると本当にゾッとする。

 

 けれど、再度体調不良のような状態に陥って分かったのは、根っこの部分では自分は何も変わっていなかったということだ。一度目の経験によって、価値観が完全に変わったわけでは無かったのかもしれない。価値観が大きく変わる土台が築かれただけであって、土ならしがされたというか、素地ができたというべきか、とにかくそのような状態だったのだと思う。最も重要な根本的なところは、まだ何も変わっていなかったのだ。

 

       f:id:seto-konatsu:20171004202744j:plain

 

 病気を経験した後は、仕事でも勉強でも、「無理して頑張り過ぎると、またあのようなことになる」というような認識であったと思う。これは非常に浅い考えであり、根底にある問題の解決には全くなっていなかったと今では思う。

 

 簡単に言ってしまえば、従来までは本当はやりたくないことを無理して頑張ってやっていた。病気から回復した後は、やりたくないことをただ体調に注意しながらセーブしてやっているようなものだったのだ。元にある「やりたくないこと」という部分は変わっていないのである。

 

 私がこのようなことに気付いたのは、泉谷閑示さんの著書を読んことがきっかけだった。本を読んで、「まさに」「これだ」と感じた。核心をついており、本質が書かれている。すごい、こんな本があったのかと思い、私は感銘を受けた。同時に様々なヒントといくつもの重要な気付きを得た。

 

 そこで分かったことは、私は以前も今も「自分を生きていない」ということだった。一番大切なのはそこだったのだ。その生き方や価値観の根幹を変えずして、枝葉だけ取り繕ったとしてもどうにもならないのは当然である。再び体調に問題が生じてしまったことも、よく理解できる。

 

 根幹を変えない限り、そこが変わらない限り、私の人生はこのままだし、同じことの繰り返しになってしまうと思う。基本的な価値観のところに革命的な変化が起こらなければ、ここから先には進めない。私はこのままは嫌だし、本当の、ありのままの自分で生きたいと思う。今はまだ程遠いかもしれないが、本に書かれていたような「第二の誕生」を目指して。

   

       f:id:seto-konatsu:20171004201735j:plain

 

 でも、そのために一体どうすれば良いのだろう。どうすれば私の中に価値観の大転換が起こるのだろう。これまでは、頭では理解していても、結局今までと同じ価値基準で行動してしまっていた。自分を大切にしようと思っているのに、結局軸はいつでも他人の側にあって、自分が無い。周囲の人間の視点から自分を見て言動を決め、努力や頑張りを強いてしまう。

 

 もしかしてこれは泉谷さん流に言えば、「心」は理解しているけれど、それを「頭」がコントロールしてきている状態なのかもしれない。それほどまでに「頭」の強権体制が築かれているという一つの証拠なのかもしれない。

 

 どうしたら抑圧してきた本当の自分を見つけられるのか。どうすれば自分の心の奥底、深くに潜っていけるのか。具体的にはわからないのだけれど、まずは自分を見つめて向き合ってみたいと思う。今の私を形作った過去の出来事から自分の言葉の手垢まで。今まで何度となく立ち止まって見てきたけれど、もう一度。

 

 世間のマジョリティはこんなことは考えないのかもしれない。考えずに生きていく、ひとまず働くことが正常であり、常識であり、良いことであるとされているのかもしれない。しかし、私はマイノリティでもマイノリティの道を行こう。流されることなく、惑わされることなく、私は私を生きたいのだ。