窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

セルフイメージの根っこを探す、過去への旅。

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 一時期はポジティブ思考やプラス思考を頑張ってみたり、口に出す言葉を意識してみたりした。それはそれで大事なことだとは思う。けれど、どんなに前向きを装っても、なかなか上手くいかない。

 

 今思えば、これらはやはり表面的な取り繕いにすぎなかったのだろう。根本的な問題は変わらずに残り続けていたのではないか。つまり、プラスに考えて良い言葉を発していても、私は心の底では低いセルフイメージを持ち続けていたのだ。私は自己肯定感が低く、自己愛が枯渇しているらしい自分に気が付いた。

 

 きっかけはやはり学生時代だろうと思う。私には学校に行くことができなかった時期がある。様々な理由が複雑に絡んでいるのだが、そのときの怒りや悔しさ、憎しみ、恨み、といった感情はいつまで経っても成仏してくれない。

 

 といっても、いつも怒り憎んでいるわけではない。普段はそんなこと忘れているし考えもしないのだが、あるときに、本当に稀なのだけれど、それが出てくるときがある。

 

 もう何年、何十年と経っているのに。その度に、「まだそんなことを根に持ち、過去に囚われて、負の感情を持ち続けているなんて」と自分でも思うのだけれど。そのような過去は「手放すだけで、許すと決めるだけでよい」と本は言うけれど、まだ許せないのだろうか、吐き出し足りないのだろうか。

 

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 不登校の時は毎日が親との喧嘩であり、本当に戦争だった。朝になれば、学校に行くか行かないかの問答を永遠と繰り返し、泣き喚き怒鳴り、結局行かないとなればまた地獄のような一日が始まる。周りの大人たちが鬼の形相で私を非難する場面が今も浮かぶ。親にも先生にも迷惑をかけていることはわかるのだが、自分ではどうにもできないという苦しみと辛さ。

 

 学校の先生には本当にお世話になったけれど、結局学校に来させることが正しい、学校に来られるようになることが正常でありゴールだと考えていたのは、どの先生も一緒だった。

 

 ある日、学校を休んだ平日の昼間に、少し外に出ようかなと思ったとき、一斉にそんなのダメ!というを強い言葉を浴びせられた。普段から外出できなかったわけでは無いのだが、なぜかその場面がずっと残っている。学校に行っている時間帯、平日の昼間に、私のような子供が外にいるところを見られたら、変に思われる。近所の人からもおかしいと思われると言われ、そのとき外に出ることは叶わなかった。

 

 「学校」というワードを出されてしまったら、当時の私に勝ち目はなかった。何をするにも、例えば、スーパーに買い物に行き、ちょっとおまけ付きのお菓子が欲しいな、なんて思ったとしても、口に出したら最後、大人達はすぐに結び付けて「学校に行くんだったら」とか「じゃあ学校に行くのね!」と迫る。

 

 あらゆる行動の条件に「学校」が付いてくる。学校に行っていない私は何も権利が無いかのようだった。それに対して、反論もできなかった。学校に行くのは当たり前のことだし、行かなくて良い正当な理由などなく、絶対的に大人たちが正しい、と思っていたからだ。

 

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 このようなことがあり、私は自分のことを「ダメな子・出来損ない・馬鹿な子」だと思うようになったのだと思う。「外にも出せない、恥ずかしい子」なのだとも思ってしまった。いつも馬鹿にされているように感じたし、登校していないことを関係ない大人にも責められた。学校は行かなければならないもの。それは当時の私にとっても、異論を挟む余地のないほど、当たり前のことだった。それができない自分の方に明らかな問題があるのだと思った。

 

 これも短絡的ではあるのだけれど、普通に考えたら「学校に行く」なんて勉強ができる・できない等以前の問題である。誰もが苦労することなく普通にできる「学校に行く」ということができないことへの悔しさと劣等感。どんな人よりも劣っているという認識を私は持ってしまったように思う。どんなに遊び惚けている子だって学校には行ける。私は誰よりも下なのだ、自分は最も底辺なのだ、とそのとき受け止めてしまった。

 

 当時、大人たちはそれぞれにまた複雑な事情を抱え、必死に精一杯生きていたし、私を守ってくれていた。そのことが理解できたのは、ずっと後になってからだった。だから、これらはあくまでも当時の私の側から見た世界であり、これが真実だとは一概には言えないだろう。きっと大人たちは大人たちで、またそれぞれの物語を持っているはずである(実際、当時の話をしたときに、親子間でも随分と見解の違いがあって驚いた)。でも私が、当時このように感じてしまった、受け取ってしまったことは一つの事実である。

 

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 おそらく、私のセルフイメージの低さの根源・歪んだ自己認識の原因はここにあるのだろう。さらにその「ダメな自分」を「ダメじゃない自分」にしようと、「劣っている自分」を少しでも「優れた自分」にしようと、その後は必死になっていたのだ。もう馬鹿にされないように、そして今度は認めてもらえるように。そこでまた常に自分で自分を罵倒しながら、「これではダメだ」「まだまだだ」と自己否定しながら、成長の階段を上ってきてしまったのだ。

 

 そんな過去を思い返し、今ようやく思い至ったことは、「あぁ、もしかしたら私、ダメじゃなかったのかもしれないな」ということだ。様々な本に書かれていることが、今なら少し理解できるような気がする。

 

 好き嫌いはあると思うが、心屋仁之助さんのブログにも何年も前の記事だが書かれている。自分の価値とは本来、何かによって上がったり下がったりする性質のものではないのだ。自分は、他の人と同じように、そのままの自分で良かったのだ。

 

 学校に行かないことが罪ではなく、学校に行けない自分が出来損ないなのではない。自分はダメな子でも恥ずかしい子でもない。元から、ありのままで素晴らしかったのだ。「ダメじゃない自分」「できる自分」になろうと必死に頑張る必要は無かったのだ。当時の周囲からの言動を、私は私の方法で受け止めた。そこでひどい勘違いをしてしまい、ずっと勘違いし続けたまま大人になってしまっただけなのだ。

 

信じていたことが間違っていただけなんです。

だから、今日から信じてみよう。

「どうせ、自分は素晴らしい」
「どうせ、自分は愛されている」

                         (心屋仁之助オフィシャルブログより)

 

 掛け違えたボタンを一つ、正しい位置に入れ直せたような、そんな感覚がする。今日からは新しい真実を、信じてみようと思う。