窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

「現実」を生きるということ-村上春樹さんの著書から

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 村上春樹さんの「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」を読んだ。前者は、1995年に起きた地下鉄サリン事件の真相に迫るべく、被害者(関係者)62人に対して村上さん自身が行ったインタビューをまとめたもの。後者は、オウム真理教信者(元信者)へのインタビューを中心にまとめたもので、どちらもノンフィクションだ。

 

 現在、社会に違和感を持ちながら様々に悩んでいる私にとって、この2冊から得るものは大きかった。「現実」を生きるということについて改めて考えさせられたのだ。

 

 村上さんが分析されるように、オウム真理教=異常=悪=あちら側と、私たち一般市民=正常=善=こちら側、という風に明確に二つの世界に分かれているわけではないと私も感じる。当事者ではないからそう言えるのかもしれないけれど。でも彼らだけがおかしくて、こちらとは関係ない理解不能なものとして別れて存在しているわけでは無いように思える。村上さんが言うように、あちらとこちらとはつながっている気がするのだ。

 

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 村上さんの小説は、わからないなりに惹かれるものがあって結構読んでいる。そこには今言った「こちら側」と「あちら側」の世界がよく登場する。二つは「生」と「死」という単純なものではなさそうだ。「こちら側」は本当の「現実」。一方で「あちら側」も同じようにあるのだが、それは決して「現実」ではない、というような・・・。

 

 彼の小説を読むと、「あちら側」(実は簡単に行くことができてしまう)に行ってしまわずに、しっかりと「こちら側」で生きることの大切さを思う。「こちら側」で生きることこそが「現実」を生きることだと教えられる。小説を読んだ後、私はいつも本物の「現実」を生きる力を与えられる気がするのだ。

 

 以前、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだときに感じたことを今でもよく覚えている。小説の中には「世界の終り」という場所が登場する。本を読みその世界に慣れて、ふっと現実に戻った時、私は今自分が本当にいるこの「現実」は実に不完全な世界だと思ったのだが、だからこそ愛おしいと感じた。

 

 自分の心の動きにも改めて感動した。それが喜び、楽しさ、嬉しさ、幸せでなく、たとえ怒りや悲しみ、寂しさ、虚しさであったとしても。影を引きずって悩んだり苦しんだり。心に振り回されたり、引きずられたり。そういった一つ一つでさえ、愛しいと思ったのだ。「あちら」の世界に行くことは簡単だが、しかし私は「こちら」の場所にしっかりと留まろうと思った。

 

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 オウム真理教は、村上春樹さんの小説に出てくる「あちら側」の世界によく似ている。そこは悩みも苦しみも葛藤も争いも何もない、安らかで静かな世界だ。一見とても綺麗で美しく、心地の良い場所に見えるため、思わず惹かれてしまう。けれど、どこか奇妙で不気味で不自然なのだ。薄っぺらくて平坦で奥行きがない。そう感じられるのは、「現実」ではないからなのだ。閉ざされた、一つの環のような、完結した世界。

 

 すべての思考や判断、心、感情などを誰かに委ねてしまえば、きっと楽になれるのだろう。自分の中の悩みや葛藤、疑問などは消え、明確な答えが得られるのだから。でもそれは非常に危険なことであり、決してしてはいけないことなのではないか。それは解決ではなく、「現実」を生きることを放棄してしまっただけではないか。

 

 オウム真理教信者(元信者)のインタビューを読んで驚いたのは、彼らが悩み直面した問題が、私たちの多くが経験する悩みや疑問と同じものであったことだ。もっと言ってしまえば、現在私が直面しているものにとてもよく似ていた。「何のために生きているのか」「こんなことをしていて意味があるのか」等々。でも、そんなときにどうするか。私はどうすべきなのか。

 

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 「約束された場所で-underground2」のあとがきで、村上さんは地下鉄サリン事件実行犯の一人である林郁夫について触れている。理想郷を目指し出家を考えていた過去の彼に対して、では私たちは何と言えばよかったのか、と記した上で次のように述べている。

 

でも実を言えば私たちが林医師に向かって語るべきことは、本来はとても簡単なことであるはずなのだ。それは「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」ということだ。

 

「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう」と。

 

 私にはこの言葉が、とても胸に響いた。きっと誰でも、私でもあなたでも、「あちら側」にはすっと行けてしまうのだと思う。でも「現実」を生きるとはどういうことなのか。

 

 光だけ、善だけ、ポジティブな面だけ、というのはきっと「現実」ではあり得ないのだろうと思う。光があれば影があり、陽があれば陰があり、善があれば悪があり、表があれば裏があり、朝があれば夜がある。しかもそれらは固定されているわけでは無く、見方によってどちらにでも変容しうるものなのだろう。

 

 混沌があり、矛盾がある。悩み、苦しみ、葛藤もある。それがあるのが「現実」なのだ。私たちは両方持っていてこそ、本当なのではないか。悩みや葛藤があってしかるべきなのではないか。自分を失くすことなく、自分が主体的に責任を引き受け、影や闇、悪の部分も抱えながら、この「現実」をしっかりと生きたいと強く思ったのだ。