窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

初めて「生きる」と向き合う。

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 最近は自分がどう生きたいのか、どうありたいのかについて日々悩んだり、考えたり。はたまた何も考えず気ままに過ごしてみたり。そんな状態だから、決して多くはないけれど、必然的に読書量も増えている。もちろんお勉強としてではなく、自然に読みたいから読んでいる。もっと多くの考え方や価値観に触れたい、知りたいと思って読んでいる。

 

 私は今初めて「生きる」ことと向かい合っているような気がする。時期としては本当に遅いと思う。恥ずかしいというか、情けないような気もする。でも一方で、遅すぎるなんてことはないんだ、と自分を鼓舞してもいる。

 

 これまでの人生、決してスムーズにここまで来られたわけではない。困難や苦労は本当に多かった。けれど、それと「生きることと向き合ってきたかどうか」はまた別の問題だった。

 

 今まで実にいろいろなことがあった。でも振り返ってみて、例えば苦しかった時にも、私は「生きる」ことに対して真摯に向き合ったり、考えたりしたことがあっただろうか。そう考えてみると、恥ずかしい話だが、今ほど真剣に「自分がどう生きるか」について考えたことはなかったような気がするのだ。

 

 もう一つ、心も体も強制終了をしてしまったその後も、「生きる」ということをきちんと真正面から考えたわけではなかったように思う。

 

 もちろんその病気が、私にとって大きな転機となったことは間違いない。病気を患ってから、自分の中で少し地殻変動が起きた。従来自分が握りしめていた価値観が崩れる素地(モト)ができたのだ。それまでの私では考えられなかった方向への価値観の転換。これがなければ、何も始まらなかった。それから私は社会に出ることとなった。

 

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 社会に出て目にしたのは、腐敗しきった組織、思考停止した人々、無駄で無意味なシステム、中身のない形式…。以前の私なら、もしかしたら順応してしまっていたかもしれない。でも病気を経験した私は、昔の私とは(少し)違っていた。大事なことが全てどこかに置き去りにされたその姿に、だんだんと怒りが収まらなくなっていった。

 

 とはいえ周りに対して怒っていただけではなく、おそらく自分自身に対しても怒りやもどかしさを感じていたのだと思う。私は自分なりに考えがあって、会社やそのシステムと直接的に対決したりはしなかった。他のみんなと同じように面従腹背だ。でも結局、一種の処世術として自分の立場を守っていたにすぎないのかもしれない。けれどそれでは、心の方が我慢できなかった。

 

 仕事一色の日々になるにつれて、疑問や違和感はますます膨らんでいく。

 

 こんな仕事に何の意味があるのだろう?みんな本当にこれで良いのだろうか?私はこのままで良いのだろうか?私は何のために生きている?そもそも生きるって何だ?働かなくちゃ食べていけない?でもそのために自分を失くして良いのか?自分も信念も何もかも失って、私はそれで良いのか?今生きているのは本当に「私の」人生なのか?今のままで胸を張って「私を生きた!」と言えるのか?

 

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 周りを見てもそうだけれど、世の中の多くの人は無難な道を選んでいる。やはり自分や家族、将来のために、今の安定した生活を手放すことはなかなか難しい。やりたくないと思いながらも、こんな生活は嫌だとどこかで思いながらも。自分には他に何かできることがあるのではないかと夢見ながら、仕方なしにまた満員電車に揺られていく。結局は抵抗せずに生きている。

 

 一体、この世の中で、本当に生きている人はどのくらいいるのだろう。

 

 私はやはり自分の気持ちをごまかしたり、上手く丸め込んで社会に迎合したりすることはできないと思う。何かやりたいことがあるのか、あなたに何があるのかと言われれば、何もないのだけれど。だからこそ、小さなことでもいいから、とりあえず興味があること、好きなことをどんどんやってみようと思う。書くことは好きだから、このブログもその一つである。うまくいったらうまくいったで良い。でも失敗したって平気な顔してどんどんやってみる。自分の生き方、自分の「生きる」を貫きたい。