窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

赤ちゃんの瞳に耐えうる生き方を。

        f:id:seto-konatsu:20171102135902j:plain

 

 先日デパートで下りエスカレーターに乗ると、前には小さな赤ちゃんを抱いたお母さんが立っていた。赤ちゃんは抱っこされているので、後ろにいた私とは自然と向き合う形になる。気が付くと、その赤ちゃんはこちらをじーっと見つめている。

 

 私はニコッとしてみたのだけれど、ビックリしたのか恥ずかしかったのか、それともお気に召さなかったのか、少し向こうを向いてしまった。でもすぐに再び、その真ん丸な瞳で私の目をじっと見つめ始めた

 

 その瞳に見つめられて、私は何だか自分が丸裸にされているような気持ちになってしまった。「あぁ、この子の前ではどんなに表面的に取り繕っても、外見を着飾ったとしても意味はないんだな」とわかった。きっと彼らはすべてお見通しだと感じたのだ。

 

 曇りのない清らかな瞳には、だからこそまっすぐ本質に迫ってくるような強さがあった。言葉や装飾などものともせず、私の中心まで一直線にたどり着いてくるようなまっすぐな強さには、はっとさせられるものがあった。

 

 赤ちゃんの純粋で無垢な、大きな瞳に見つめられても、たじろがないでいられるか。後ろめたい気持ちになったり、思わず視線を逸らしてしまったりしないだろうか。その瞳を、きちんと真正面から受け止められるような生き方を、私はしているだろうか。嘘のない生き方を。

 

 同時に「いったい彼らの瞳にはどんな世界が映っているのだろう」と考える。彼らは語らないというか語れないわけだけれど、もしかしたら私たちが見ている世界とは随分違った世界を見ているのではないか、と感じる。大人になるにつれて見えなくなる最も大事なもの、あるいは元から目には見えない大切なものは、彼らにはちゃんと見えているような気がするのだ。

 

 そんなことを考えているうちに、赤ちゃんはお母さんに抱かれたまま去ってしまった。私が感じたものは、現在の自身の悩みや考え等に大きく影響されているとは思うのだけれど、何だか、生きる姿勢や生き方、私という人間そのものを問われているような気持ちになってしまった。彼らの瞳を自分の心の内に持って日々を送ることは、とても大事なことかもしれない。3階から2階に下りるまでの、時間にしてわずか数十秒の出来事だったが、心に残るものは大きかった。