窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

「生活」と「人生」を分けて考えてみる。

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  みなさん「生活」「人生」をどのように考えているだろうか。私は「生活」とは普段の日常生活であり、「人生」とはその「生活」が集まったものだという認識を持っていた。

 

 「人生」という言葉にはどこか仰々しい響きがあるが、細かく見れば、それは日々の暮らしの集積だ。一見平凡に見える日々が人生を作っていく。自分が一日一日をどのように生きたか、その「生活」が積み重なり、その人の「人生」となっていくものだと認識していた。ところが、遠藤周作氏の「ほんとうの私を求めて」という本を読み、とても面白い考え方に出会った。彼は「生活」と「人生」とを明確に区別しているのだ。

 

 彼は30代後半と50代半ばに、大きな病気をしている。一度目の病気の際には、それを素直に受け入れることはできなかったという。自分に降りかかった不幸を嘆き、日々悔しさを感じては途方に暮れていた。だが後になって、彼は病気になってよかったと考えるようになった。それは病に倒れた時に「人生のあるものに触れたから」だという。

 

 この経験を経て、二度目の時には病気に対する姿勢が変わった。もちろん全く動じなかったわけではないが、一度目の病気で次のように学んだそうだ。

 

現実生活では挫折しても人生の次元では収穫がある                         「ほんとうの私を求めて」(遠藤周作著)より抜粋

 

 なるほどと思うと同時に、私にはとても新鮮な捉え方だった。病気や失敗、挫折などを経て何か大事なものを学ぶというのは、よくある話かもしれない。しかし、そのことを「生活」と「人生」という二つの次元の観点から考えるのは、新しい視点だったのだ。      

 

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 そのように考えてみると、一般的には不運と思われるような出来事も見方が変わってくる。例えば、病気を患って会社を辞めてしまった場合。現実の生活だけを見れば、挫折したような、立ち止まってしまったような状況に映るだろう。物事の流れは停滞し、先が見えない状態だ。だが、それは「生活」の話であって「人生」の話ではない。

 

 「生活」の面では、レールから脱線してしまったように思われるかもしれない。でもそのときに、人生の次元では成長し、何かを得ているのだ。私もそんな風に現在の自分の状況を考えてみると、今は「生活」ではなく「人生」を与えられているのかもしれないと思う。以前誰かのブログで「履歴書の空白部分は人生が発酵しているとき」という一文を読み、なるほどその通りだと思ったのだが、それと似たようなものがある。

 

 彼の考え方を知って、人間は「生活」の中を生きたり、「人生」の中を生きたりするものなのかもしれないなと思うようになった。日常生活の次元で何らかの挫折をした場合、私たちは人生の次元へ旅をしている。そこでは、普段の生活では決して味わうことのできない「あるもの」に触れることができる。それらに触れ、学び、何かを得て、また「生活」に戻っていくのだ。「人生」の次元を生きたことで、その人の価値観や考え方は大きく変わっていく。それがその人間の生き方に還元され、未来の「生活」の中に反映されていくのかもしれない、とそんなことを思った。 

 

ほんとうの私を求めて (集英社文庫)

ほんとうの私を求めて (集英社文庫)