窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

自分の中の「影の部分」とどう付き合うか。

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 自分の中に湧いてくる怒りや憎しみ、恨みなどの感情。卑怯なところやずるいところ、弱い部分にダメな部分。最近は自分のそんな部分ばかりが目についてしまい、自己嫌悪に陥ることが多かった。でもそれらを含めて私なのであり、そういう部分があってこそ人間なのだ。先日も書いた遠藤周作氏の「ほんとうの私を求めて」という本で、そのことを改めて教えられた。

 

 頭では理解しているつもりでも(ということは本当にはわかっていないのだろう)、考えるうちに、自分だけがおかしいのではないかと不安になるときがある。こんな感情を抱いてしまうなんて、とか、自分は悪い人間なのではないか、と自分を責めたり悩んだり。けれどそれが当たり前なのだ、人間みんなそうなのだと考えると少し心が軽くなる。

 

 私はどうしてもその種の感情を良くないもの、悪いものだと思ってしまうところがあった。だが、遠藤周作氏はそれ自体は悪いものではないと言う。むしろ悪いことだと思って、必死に抑えつけてしまうことの方が問題なのだと言っている。確かにその通りだ。

 

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 他の人々と共に社会生活を営む以上、私たちは当然、いろいろな欲望や感情を抑圧せざるを得ない。それは必要なことで、ある意味仕方のないことだ。ただ、感情を抑えたままにしておくとどうなるか。抑えに抑えられた結果、とんでもないところから噴出する場合があるという。これは感覚的に納得できる。病気(うつ病等)についても言えるかもしれない。

 

 感情をどのように処理したか(発散したか)、その結果何が起こったかによって社会的な善悪が判断されることはある。しかし抑えつけた感情自体は悪いものではなく、それは個性の源でもあり、良い種も持っているという話に「なるほど」と思った。

 

 そこで遠藤氏は、適当な捌け口を用意してやることが大切だと述べている。捌け口といっても、他人や自分を傷つけてしまう方法もあるため、どのように発散するかについては知恵を働かせる必要はある。その点に注意しながら、社会生活の中でいつも抑えつけている「本当の自分」の欲望や願望を、解放できるような捌け口が見つけられれば良いなと思う。  

 

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 ここで、本の中で印象に残った箇所を二つほど紹介したいと思う。

 

自分の影を拒否したり否定したりするのが今までの宗教やモラルだった。自分の影とは自分のなかの不気味な部分のことである。(中略)しかし私はその部分も含みながら自分がなりたっているのだというユングの考えかたに共鳴するので、今までの宗教やモラルとは別の考えかたをするようになっている。              出典:「ほんとうの私を求めて」(遠藤周作著)

 

人間の心もすべてあかるい場所、理解しうる世界である筈はない。人間の心のなかには他人には覗くことのできぬ暗間がある筈である。ひょっとしたら当人自身にもわからぬ部分もある筈である。だからこそ人間は面白いのであり、我々小説家は何百年にわたって人間を描きつづけ、これからも描きつづけられるのであろう。      出典:「ほんとうの私を求めて」(遠藤周作著)

 

 自分の中の否定したくなるような部分も自分の大事な一部であり、それがあるからこそ人間なのだということ。感情自体は悪いものではなく個性の源でもある。そのことを忘れず、適切な捌け口を用意すること。物事には両面が分かちがたく存在していること。「言うは易く行うは難し」だが、少しずつ思考を変えていきたいと思った。そういえば以前の記事でも似たようなことを書いていた。

 

 

 ところで、私はこれまで遠藤周作氏の作品を読んだことが無かった。彼に対して勝手に「お堅い人」というイメージを持っていたのだけれど、とんでもない。ユーモアがあって面白く、優しさに溢れる人だと感じた。それに自分と同じようにダメなところ、幼稚なところ、恥ずかしいところもあって(それをちゃんと書いてくれているところが嬉しい)、人間味に溢れていて親近感がわいてしまった。他の作品も読んでみたい。

 

ほんとうの私を求めて (集英社文庫)

ほんとうの私を求めて (集英社文庫)