窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

食への姿勢を見れば、生きる姿勢がわかる。

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 以前は食べるのが面倒くさいと思うことがあった。食べたい気持ち自体があまり無く、食欲が湧くことも少なかったのだ。お腹が空いたからというよりも、単に時間になったから食べているだけ、なんてこともあった。食べるものにも特にこだわりが無く、スーパーで買ったお惣菜でも満足していた。職場ではお昼休みにコンビニのお弁当やパンを食べることもしばしばあった。

 

 ところが、最近は自分で作って食べたいという気持ちが非常に強くなり、少しずつ料理を始めるようになった(遅いのは重々承知しているが…)。料理と言っても別に凝ったものではなく、カレーやシチュー、チャーハン、パスタなど簡単なものだ。「何を食べるか」に関しても今まで以上に意識するようになった。安いから、家にあるからという理由だけではなく、自分が今欲しているものを心に聴く。そのことをとても大事にするようになったのだ。

 

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 食べることは生きることとよく言われる。けれど食への関心が薄かった頃の私には、実感を伴って理解することはできなかった。食が大事なのはわかる。でも私だって自分なりに頑張って生きているのだ。それなのに食に関心がないことで、生きる姿勢まで否定されているようで癪だった。それほど食にこだわらない人だっている、と心の中では少し反発していた。

 

 しかし、今は違う考えを持っている。なぜなら生き方に対する姿勢の変化に伴って、私の食への関心は変わってきたからだ。

 

 記事にも書いている通り、私はこれまでの経験を経て、どう生きたいのかを真剣に考えるようになってきた。初めて生きることに向かい合うようになったのだ。今までは知らず流され、他人軸で生きていたのだと思う。今だってその思考が完全に拭えたわけでは無い。けれど自分軸で考えること、自分を確立することを非常に意識するようになったのだ。すると、この変化に伴って、食に対する考え方が変わってきた。生きることに関心が出てくると、食に無関心ではいられなくなるのかもしれない、と思った。

 

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 やはり食に対する姿勢は、そっくりそのまま生きる姿勢に繋がっているのではないか。食べるものを「何でも良い」と思うなら、それは生きるのを「何でも良い」と思っているということ。仕方なく食べているのなら、仕方なしに生きているということ。出来合いのものばかり食べて満足しているなら、人生においても常に誰かに用意してもらった道を歩いているだけなのかもしれない。

 

 反対に「あれが食べたい、これが食べたい」と感じて動く人は、生きることにも積極的なのではないか。大げさかもしれないが、自分で料理して食べることは、自分の手で人生を切り拓いていくことに繋がるようにも思える。いつ、どこで、何を、どのように、誰と食べるかという食へのこだわりは、生き方へのこだわりでもあるのだ。

 

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 先日テレビで若いモデルの方が、「食事が面倒くさい。いっそ流動食でも良い」と言っているのを聞いた。過去の私に近いものがあるのだけれど、今はこの言葉が何を意味するかがわかる。食べ物のことを言っているように聞こえるけれど、実際は違う。彼女の言葉は「私は生きるのが面倒です。何も考えていないし、仕方なしに生きています。」と宣言しているのと同じではないか。

 

 最近はご飯がとても美味しい。本当に美味しい。ついつい食べ過ぎてしまうので、腹八分目を覚えないといけないなと思う。徐々にレパートリーを増やして、料理も食事ももっと楽しめるようになれたら良い。食べ物に対する姿勢は、生きる姿勢に繋がるただの栄養補給ではない、いのちの食事を。みなさん、楽しく美味しく食べていますか。