窓辺のレモンティ

社会人となり数年。今この瞬間、自分を生きるために。

一日四回飯を食え。

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 最近は自由に本を読めるようになった。私の場合、仕事をしていた時は読書をする時間も気力もほとんど残っていなかった。読みたい本があっても、時間的・精神的余裕が自分には無かったのだ。まして「家でゆっくりと読みたい派」なので、いつでもどこでも本を読むという器用なこともあまり出来なかった。

 

 考えてみると、学生時代は読書の楽しさがよく分かっていなかった。幼い頃に背伸びして読んだ本が、難しいだけで面白いと感じられなかった、という記憶も影響していたのかもしれない。娯楽ではなく「勉強」だと思ってしまった。ためになると考えて無理して読んでいたことさえあった。今思えば、これは大きな勘違いだったと思う。

 

 学校では一時「読書の時間」が設けられ、毎日10分程度、本を読む時間があった。終わりに今日は何ページ進んだかを記録するのだ。だが、あの時間も私にとっては楽しいものではなく、どちらかと言えば苦痛だった。本の選び方に問題があった上、みんなで一緒に読書することも性に合わなかったようだ。内容が細切れになってしまうのも心地良いものではなかった。

 

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 本が楽しいと思い始めたのは、ここ何年かの事かもしれない。たまたま手に取った小説が非常に面白く、今まで本に対して抱いていたイメージが大幅に変わった。それ以降、本との間にあった壁が取り払われたように思う。

 

 好奇心から出立して本を探しては読んでみる。壁にぶつかって悩んでは、本を開くことも多くなった。偶然に任せて手に取ってみたり、本の中に出てきた本を芋づる式に読んでみたりもする。小説などの物語を純粋に楽しんだり、物語から学ぶことも多い。新書や随筆では、知識だけでなく生きるヒントや考え方、今までになかった視点も取り入れることができる。

 

 読書をしていてつくづく感じるのは、本当の勉強とは「好奇心」が動かしていくもので、実に楽しいということだ。本を読めば読むほど、分からない事は山のように増えていくし、知りたい事もどんどん広がっていく。自分の知らない素晴らしい物語も数え切れないほどあるに違いない。好奇心から学び、その過程で新たな好奇心が芽生え、さらに学習が進むというのは理想的なサイクルかもしれない。

 

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 ある人が「一日四回飯を食え」と言っているのを聞いたことがある。三回は朝昼晩の食事のことであるが、残りの一食は「活字の食」、すなわち読書のことなのだ。三度の食事が私たちの肉体を作るなら、読書は精神的食事であり、私たちの頭と心を育むものだと言えるだろう。きっと読書は人間にとって必要不可欠な栄養なのだ。私もこの言葉のように、一日に一度は「知の食事」を心掛けていきたいと思う。

 

 古代ギリシャ人たちが知らず、私たちが知っている二つの楽しみはタバコと読書だという話もある。個人的にタバコには同意しかねるけれど、読書はまさにそうだと思う。読み継がれてきた名作、故人との対話、人生を経験した先輩方の金言。水野晴郎さんではないが「いやぁ、読書って本当に良いものだ」と最近は痛切に感じる。遅ればせながら、読書の楽しさを知ることができて幸せだと思う。